リレー随筆

 リレー随筆(過去分)

従来のリレー随筆の2つのレーンを統合した内容にリニューアルしました。 過去の分は、右上の「リレー随筆(過去分)」をクリック下さい。

 國友 宏二(H20年経営学部卒業)

「国友と國友」

『国友と國友』
今考えれば不思議な話ですが、國友家には自分の苗字を小学校まで『国友』と書き、中学校からは『國友』と書く、という決まりがありました。私はそれを小学6年生になった時に父から知らされたのですが、理由は単純に書きにくいからということでした。たしかに小学校低学年で『國』を書けといわれたらなかなか大変だったろうなあと思い、私は何も言わず納得したのを今でもはっきり覚えています。

『鉄砲』
さて、先に触れた『國友』という私の名前ですが、滋賀県(近江)の琵琶湖湖北にある長浜市の北端部に位置する国友村(現・国友町)がルーツになっています。日本史に詳しい方はご存知かもしれませんが、国友村は戦国時代からの鉄砲鍛冶で有名になりました。もちろん種子島の方がもっと有名なのですが、天下の分け目となった関が原の戦いでは、徳川側に鉄砲を提供していたのが主に国友鉄砲鍛冶であったという資料もあります。それを考えるとある意味国友村が天下を取ったといっても過言ではないかもしれません。(過言でした申し訳ありません。)
年月不明の3匁玉鉄砲の図、国友一貫斎文書より
(年月不明の3匁玉鉄砲の図、国友一貫斎文書より)

『近江』
近江にある国友村(現・国友町)には、今でも鉄砲鍛冶にまつわる記録、資料が多く残っており、私も中学生になって早々、父に国友村まで連れていってもらいました。表の目的は先祖の歴史を学ぶこと、裏の目的は近江牛を堪能することでした。話はそれますが、近江牛は本当に美味しいです。「肉質がとてもきめ細かく、甘い脂が口の中で溶けて、とろけるほどおいしい」と絶賛される近江牛、是非ご賞味ください。

『国友の里資料館』
国友の里資料館  話を戻しまして、中学生になった私は父に連れられ、国友村にある『国友の里資料館』を訪問しました。
私が訪問した当時は邦子(くにこ)というマスコットキャラクターがいたのですが、現時点ではいなくなってしまったようです・・・
ここは国友という土地が鉄砲鍛冶の町となった経緯、そして国友鉄砲鍛冶が歴史に与えた影響などについて、当時の資料から学ぶことのできる素敵な資料館です。
是非、滋賀県を訪問される際は、国友の里資料館へ足をお運びください。^_^(宣伝)

『最後に』
國友という私の名前についてお話するはずが、気付けば国友村の宣伝になっておりました。皆さんいかがでしたでしょうか?私はこういった自身の名前に歴史があることを誇りに思います。
私はまだ独身で子どももいませんが、結婚し子どもができた時には、父と同じように國友家の決まりを伝え、子どもと一緒に國友家のルーツについて、ゆっくりめぐってみたいと思います。近江牛とともに。

以上です。

【事務局より】本原稿は旧第1レーンからのバトンでいただいた2016.12.25受信の原稿を前走者より約3ヵ月の期間を設けて掲載させていただきました。次のバトンの方は未だ決まって居りませんが、ご期待願います。

以上(2017.03.29)

 

 

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 村上 好(S48年文学部卒業)

「懐かしき人」

 3月下旬となり漸く温かくなってきた。懐かしい人を訪ねたくなり旅に出た。3月24日、新横浜午前9時29分発「のぞみ19号」に乗って神戸に向かった。シートに腰を下ろしゆっくりお茶を飲んだ。レバーを引いて背もたれを後ろに倒し目をつむると車両の振動がゆりかごのように快い。まもなく夢の世界にいざなわれ快い眠りを楽しんだ。これは列車の旅の醍醐味の一つである。

11時55分に新神戸に着いた。駅舎に迫る山肌の木々も黄緑色を呈し始めている。駅の売店で「玉子とハムのサンドイッチ」を買い、柔らかいクッションの椅子に座って昼食とした。乗客が行きかう様子を眺めながら、魔法瓶の温かいほうじ茶を飲み、しっとりしたおいしいサンドイッチを賞味した。一人旅もきままで楽しい。

神戸に住んでいる84歳の、父の弟に電話を入れた。
「所用で今、新神戸です。ご都合が良ければ訪問します」
この叔父にはこれまでたいへんなお世話になっている。父が、私が3歳の時に十二指腸潰瘍で他界したので、叔父は私の将来を案じ、陰になり日向になって支えてくれた。高校時代、私は京都大学の受験準備をしていたが、受験直前になって東大入試が中止となり、叔父が神戸に住んでいることもあって受験先を神戸大学に変更した。

叔父とは性格が似ているせいもあり、とにかく馬が合った。酒を酌み交わしながら延々と話をした日々を思い出す。彼の本業は紳士服で、副業で不動産業を手掛けていた。私が20歳になると、叔父は私に不動産業の手ほどきをし、私は大学4年の時に小さな貸アパートの経営を始めた。それ以来、ほそぼそと賃貸事業を続けてきた。お蔭で経済的には比較的恵まれた人生を送れており、叔父には心から感謝している。

久しぶりに叔父を訪ねた。歩行が困難になりつつあり一人では外出できなくなっている。耳が少し遠くなっていて、時々話が通じなくなる。近所に住んでいる次女が隣にいて時々通訳する。温厚な性格、回転のよい頭脳、エネルギッシュな行動ぶりをずっと見てきたので、最近の変化は驚くばかりだ。それでも所有する賃貸マンションの経営は自ら管理しているときいて安心した。叔父は私が2か月前にエッセイ集を出版したことをひどく喜んでくれた。

午後5時半、阪急三宮駅の東口広場に行くとベレー帽をかぶった男性の後ろ姿が目に入った。その横にマスクをした男が立っている。帽子の人は神戸大学文学部時代の恩師、眞方忠道名誉教授、マスクの人は同級生の金澤秀郎君である。金澤君は大阪府立高校の校長を務めたのち退職し、漢方の勉強をしながら悠々自適の生活を送っている。
「先生、お久しぶりです。40年振りですね。やはり年月の経過を感じますね」
当時、先生は30半ばの若き講師だったが、後期高齢者になったよと笑っている。

眞方先生と金澤氏と筆者  広場からフラワーロードを新神戸方向に歩き、2本目の筋を左に折れて、先生行きつけのイタリア家庭料理の店「Rヴァレンチーノ」に行く。樫の木でできた重厚な扉を開くと陽気なイタリア人3人が迎えてくれる。
「ブオナセーラ!」(今晩は!)
赤ワインで再会とお互いの健康を祝した。先生がいつも飲んでいるというモンテプルチァーノ・ダブルッツォはブラックチェリーの香りが漂い、かすかな酸味が感じられる旨いワインだ。やや黒みがちの赤い色もいい。かつおのカルパッチョ、生ハムとルッコラのサラダ、テーブルの後ろの石窯で焼いたピザなど、どれも旨い。楽しいうたげである。


先生から著作をいただいた。『プラトンと共に』(2009、南窓社)である。
「人生で一番大切なものは何か、この問いを胸に、プラトンを先達として旅に出る。もちろん私が勝手におしかけたのだが、じろりと私をにらんでからプラトンは、黙って先に立って足早に歩きはじめた。私はその広い肩を見つめながら後ろからついて行く・・・」
(同書、7ページ、序章)

レストランから六甲山に向かって10分ほど歩き、午後10時過ぎホテル北野プラザ六甲壮にチェックインした。このホテルは伝統的建造物が集積している異人館通りの起点に位置し、落ち着いた雰囲気の実に居心地の良いホテルで、神戸ではここを定宿にしている。和食を中心にした朝食のおいしさは神戸で隋一との定評がある。翌朝の朝食を楽しみにぐっすりと眠った。

翌朝、新神戸駅で北神急行に乗り長い六甲トンネルを走り抜けると間もなく谷上駅に着いた。10時20分に改札口を出ると駅前の駐車場で手を振る人がいる。近づくと駆け寄ってきて手を握ってきた。
「いやぁー、久しぶりです。20年振りですかね。村上さん、若いですねぇ」
福本好幸さんである。彼が中学2年の時、私は数学と英語の家庭教師を始め、高校1年までの3年間続いた。当時福本さんのお父さんは輸出用ラジオを製造するコニー音響の社長で毎年芦屋税務署の高額所得者番付に名前を連ねていた。好幸さんは気持ちがよくなるほど数学の成績が伸び、教えていて本当に楽しかった。あの時14、5歳の少年が今や57歳になっている。目がきりっとしていて俳優のようにハンサムだ。池を借りて釣り堀を経営したりしていたが、最近事業はやめてお母さんのお世話をしている。福本さんは昔から運動神経がよく、今はテニスに注力している。3年前の神戸市民大会50歳の部で優勝した。アマチュアの日本ランキング180位の人と試合をしてもほとんどいつも勝てるという。

三木市のビーンズドームにあるコート  久しぶりにテニスをやろうと、今日は好幸さんが三木市のビーンズドームにあるコートを予約してくれていた。デビスカップなどの公式戦が開催される立派なコートだ。最初はお互いにサービスラインのあたりに立って短いショットの練習をした。好幸さんのショットを受けていて、ボールの回転が実に正確で回転角度がいいことに気が付いた。DVDで教えられる通りのスイングをしている。その後ベースラインに立って長いストロークの練習をした。実に生きのいいショットが飛んでくる。時速150キロ位で飛んできて着地した後、ぴゅんと跳ねてくる。しっかりボールをみつめてスイートスポットでボールを捕え、しっかりフォロースルーすると、普段では打てないような勢いのあるショットが打てる。実に楽しいラリーだ。
「ボレーが苦手で困っている。どうしたらいいんだろう?」
ストローク練習の後、上級プレーヤーに相談した。
「じゃぁ、普段通りにボレーをしてみてください」
しばらくボレーをした後、
「ラケットの握り方を変えた方がいいでしょう。包丁を握るように真上からラケットを握ってください。このグリップだとラケットがぐらつかなくなります。ボールを捕える時は小指に力を入れてください」
握り方を変えてボレーをしてみる。確かにぐらつかずラケット面が安定している。活きのいいボールが相手コートに返っていく。フォアだけでなくバックもいいボレーができる。
「低いボールを取る時は腰を落としましょう。立ったまま打つとラケットヘッドが下がってしまいます。遠いボールには一歩近づき、脇を開けないで打ちましょう」
にわかには習得できないが、信じられないようなボレーが打てるようになってきた。
「好さん、すごく良くなりましたね。今日は意識して早いボールを出しました。遅いボールだともっと切れのあるボレーができますよ」

福本氏と筆者  思いもかけず上級プレーヤーの個人レッスンを受けて、一番覚えたかったボレーのこつが掴めたようだ。40年前は手取り足取り数学や英語を教えた人に、今度はテニスを教えて貰っている。こんな嬉しいことはない。今日教えて貰ったことを忘れずに、テニスクラブで練習を続け、しっかりと自分のものにしたい。年内にもう一度神戸の先生を訪ね、成果のほどを報告しよう。明日からのテニスライフがますます楽しみになってきた。

【事務局より】村上好氏のブログをお楽しみ下さい(村上 好 氏ブログ)
 

以上(2016.12.19)

 

 

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 藤岡 昭(S46年工学部計測工学科卒業)

「私が生まれた広島の家」

 私が生まれた広島の川内村は広島湾太田川河口から10qほど北の流域にある。
この辺りは山あいの幅が1〜2qの狭い流域であり、山辺と中洲のある地域である。
急速に都市化して、平成26年8月広島土砂災害地となった広島市安佐南区である。 
また広島といえば原爆被災地であり、生家も祖父・叔母・親戚が犠牲となっている。
川内地区は180人が勤労奉仕中(義勇隊)に被爆し、一瞬にして村人が未亡人となり苦労する農村地区となった。(右写真は中央筆者、右弟と前は隣家の子)

その状況は祖母藤岡キヨノ(パソコン検索で出る)が平和データベースの公開動画と、岩波新書に「原爆に夫を奪われて」で、永遠の平和を祈願しているので参照して頂きたい。
さて私が18歳まで生まれ暮らした家は、 神社とお寺さんの間にあって、名の通り川の内に位置し、洪水に悩まされた。(図―1)

家は昭和35年頃までは藁葺きの家であったが、その後何度か改築を重ねて母屋以外は残っていない。母屋の柱の骨組みは残存しており、今は兄が継いでいる。
私は5〜6歳の頃、自転車で家の土間を一周して遊んでいた。
図―2は記憶のまま平面図を手書きしてみた。中央が母屋、上部が裏長屋、右横が納屋で、木小屋、馬小屋以外にわらを蓄積するところなど農作業場と農機具置き場が広かった。

母屋は壁が少なく周囲が障子の部屋が多くて風通しが良く、夏場の昼寝の場所となった。
玄関に入ると土間で、脇に「から臼」(足踏み式臼)が常設してあった。 その土間でお正月や寒の入りにお餅を沢山ついた。母屋の土間を奥に入ると裏長屋炊事場に通じていた。
くど(かまど)があり、風呂焚口、更につるべ式井戸も家の中の土間にあった。
 図―2の写真はその田んぼで農作業する父母と、手伝いをする兄である。手前が馬小屋、その奥が納屋、左に隠れて母屋となる。
写真―1は最近の広島市安佐南区川内である。太田川改修後急速に発展し、かつてのわら家が散在した農村の面影はない。18歳まで家族6人で(両親・祖母・3人兄弟)楽しく過ごしたが、今では兄と二人になった。(右写真は筆者)

合掌



(以上、世田谷区生涯大学第38期生修了作品集(平成28年3月世田谷区生涯大学)に掲載したものをそのまま転用しました。)

次は、昭和48年文学部卒の村上 好さんにバトンを渡します。

以上(2016.08.01)

 

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